(1)サークル施設詳細

初代恵迪寮

恵迪寮 明治38年、現在の教育学部の位置に建てられた。明治40年より恵迪寮を名乗る。
恵迪寮はあくまでも寮であり、サークル会館というわけではない。しかし、当時の恵迪寮は学内の文化活動の中心的な役割を果たしており、庭球部・写真部・スケート部・美術部黒百合会など、多くの団体がこの場所で生まれていることも事実である。
この場所を北大サークル活動発足の地とみなしてもよいのではないだろうか。
二代目恵迪寮建設に伴い昭和6年に取り壊される。


野幌森林公園内の開拓記念村に移築された物を撮影。黒百合会資料より。

学生ホール

学生ホール 昭和9年、学生生徒控所として現在の学術交流会館の位置に建てられた。 昭和15年、太平洋戦争の影響などから文武会の解散が文部省より通達され、北大のサークルは全て「報國会」に組み込まれることとなる。当時の記録を見ると、年号には皇紀が使用され、物品の入手も困難になるなど重苦しい時代であった。
昭和20年9月、進駐軍が事前連絡無しに部内の備品を農学部側の倉庫に押し込めてしまい、学生ホールは使用できなくなる。
戦後は診療所として使用されたが、老朽化を受けて昭和48年に取り壊された。

昭和48年撮影

第2サークル会館(解放会館)

解放会館 大正13年、学生生徒控所として現在の学術交流会館の位置に建てられた。戦後の北大サークル活動史において象徴的な建造物である。

昭和40年頃から全国的に学生運動が激しくなり、大学事務局の向いに建っていた第2サークル会館は学生運動の拠点という性質を帯びてきた。サークル会館のあった正門付近は「解放区」と呼ばれており、これを受けてか、昭和43年頃より第2サークル会館は「解放会館」と呼称されるようになる。
昭和44年は東大紛争の影響などから、北大でも入学式の中止(4/10)、教養部で授業中止(5/23〜S45,1/4)、各学部でバリケードの設置やストライキなどが相次ぐなど、学内は混乱を極めていた。同年8月の大学臨時措置法(大学立法)の施行を受けて治安維持のために学内に機動隊が突入するようになり、事態は沈静化に向かう。
昭和46年には沖縄返還協定を巡って再び運動が盛んになった。6月には正門付近で闘争が起こり、機動隊のガス弾が解放会館に打ち込まれる等があった。6月20日、これらの騒動に関連して解放会館が家宅捜査を受ける事となる。
北大での学生運動は昭和46年末頃までくすぶり続けたが、47年には学内も落ち着きを取り戻した。

昭和49年12月26日にボヤ騒ぎ。翌50年3月30日深夜には、解放会館は不審火によって半焼してしまう。火元の部屋以外に大した被害はなく各サークルは火事の後もサークル会館を使用していたが、電気が止められてしまったために活動に支障を来していた。火事から半年以上も経過した昭和50年12月9日、第2サークル会館は撤去され、一つの時代が終る。
この後、各サークルはプレハブや第3サークル会館へと移転した。

昭和47年撮影、写真提供:黒百合会OB

中央講堂

中央講堂 大正5年に教養部の中央講堂として、現在のクラーク会館前の位置に建てられた。
昭和40年までサークル用施設として使用された。昭和38年時点の部屋数は10で、単独入居が4サークル、共用が23サークルとの事である。
教養部の移転に伴い、昭和40年頃に撤去された。

撮影年度不明(〜S30?)、写真提供:工学部

第1サークル会館(文連会館)

文連会館 明治35年に農業経済学講堂として現在の農学部ローンの位置に建てられた。後に教養部の第1講堂に用途変更され、昭和40年より第1サークル会館となる。
昭和30年代のサークル会館は第2サークル会館と中央講堂の二つであった。教養部が現在の位置に移転した後に中央講堂が取り壊されることとなり、代替措置として、この第1講堂が第1サークル会館となった。
学校側は第2サークル会館も撤去して、全てのサークルをこの第1サークル会館に集めようと試みたが、学生からの猛反発で第2サークル会館は存続することになり、第1・第2の二つのサークル会館の共存という状態が生まれた。
新聞会の部室があったほか、ホールでは演劇も数多く上映されていた。

長らく学生の城となっていた第1サークル会館は、昭和54年4月30日に、漏電が原因とされる出火によって半焼した。学生達は焼け残った部屋を再分配して6月には活動を再開した。
大学側は新サークル会館建設の予算を文部省に申請し、火事から3カ月後の8月1日には早くも予算の目処が付いたとの報告があった。現在のサークル会館が学生達から「新サークル会館」と呼ばれるのは、この時期に第1・第3サークル会館との区別を付けるために「新」と形容されていたことの名残りであろう。つまり現在のサークル会館は、まさにこの第1サークル会館の火災を直接の原因として誕生したのである。
しかし、文部省の予算認可は、被災した第1サークル会館の撤去が前提条件であった。学生側は、新サークル会館建設の全容が不明であること、第1サークル会館取り壊しから新サ館建設までの活動の保証が無いことなどから、立ち退きを拒否して学生部と交渉を続けた。
この交渉は決裂し、同年8月8日、学生部長名による退去通告が出された。学生達は深夜まで対策を協議するが、翌9日、まだ中に人がいる状態で強制的に建物は撤去された。話によれば、この時は学外に機動隊が待機していたとの事である。

撮影年度不明(〜S30?)、写真提供:工学部

第3サークル会館

第3サ館 昭和14年竣工。昭和44年に教育学部より転用され、サークル専用施設となる。現在の地球環境研の位置に建っていた。
第2サークル会館の焼失により部室を失ったサークルは、応急措置としてプレハブや第3サークル会館に入室することになる。
当時の学内では木造校舎にボヤが多く、上記の第1・2サークル会館の焼失の他に、恵迪寮でもボヤが起きるなどがあった。これは木造建築で石炭ストーブという形式を取っている限り再び発生する可能性があった。
このため、木造の第3サークル会館は当初より一時使用の建物という位置づけだったようだ。新サークル会館の完成に伴い、昭和56年8月に撤去された。

昭和50年頃撮影、黒百合会資料より

クラーク会館

クラ館 昭和35年竣工。北大創基80周年事業の一環として建設された。慢性的なサークル室不足を解消するものになるかと期待されたが、部室ではなく会議室の時間貸しというシステムであったため、他の施設と異なった雰囲気となっている。
建設当初は教養学部がこの付近にあったので便利だったが、現在は教養の学生にとって少し遠くて不便になってしまった。
しかし、サークル会館よりは近いという事情もあり、現在もミーティング、説明会等に頻繁に利用されている。

平成14年撮影黒百合会資料より

新サークル会館

新サ館 昭和56年竣工。被災した第1サークル会館、老朽化した第3サークル会館に代わる本格的なサークル専用施設として、当時としても破格の5億円をかけて建設された。
設備面では申し分ない建物であるが、管理面で学生部と文化団体連合会が衝突し、入室に至るまでは紆余曲折があった。
文連は、これまでのサークル会館のように24時間使用、鍵の自主管理などを求めていたが、管理上の都合から叶えられることはなかった。このため、多くのサークルが「新サークル会館への入室拒否」を宣言し、新聞にも取り上げられるなど大きな問題となった。
第3サークル会館の取り壊しを受けて各サークルは入室を余儀なくされ、現在に至る。
北大内のサークルは約110団体あるのに対し、新サ館は46の部屋しかなく、慢性的な部室不足状態が続いている。学生部は平成6年度から「第2サークル会館」(歴史的に見るとこの名称は紛らわしい:管理人)の予算を申請しているが、実現には至っていない。
この建物の正式名称は「サークル会館」であり、「新」の文字は何処にも無い。建設計画が発表された当初、これまでのサークル会館と区別する為に「新」と形容していた物がそのまま根付いた様だ。ただ、ここ数年は「新」を付けずに呼ばれることも多くなっているように感じられる。

余談になるが、教養食堂の2階ロビーに学生が居座るようになったのは、新サークル会館があまりに遠いためという事である。そのBOXも平成13年2月にサークルの占有が禁止されてしまい、学内サークルにとって厳しい状況が続いている。

平成10年撮影黒百合会資料より。

脚注

参考資料:北海道大学100年史、文武会会報、えるむ、黒百合会資料
このページに記載された内容は管理人の個人的な調査にもとづいており、大学側の公式な資料と記述が一致しない場合があります。

調査、図版作成:栗野嵩志(さっぽろくろゆり会)